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【組合案内】 【概要】 【沿革】 【組織】 【組合員・賛助会員】 【事務局案内図】 |
【旧事務所】左:昭和25年頃 右:大正14年頃)
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明治 |
16年 |
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東京左官職組合を日本橋区浜町3丁目に事務所を設けて発足
10月 警視庁より認可 |
明治 |
17年 |
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農商務省令により東京壁職業組合と名称を改める |
明治 |
19年 |
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東京府知事より認可 |
大正 |
9年 |
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名称を東京左官工業組合に変更 |
大正 |
10年 |
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東京府知事より認可 |
昭和 |
3年 |
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東京左官組合に改称 |
昭和 |
17年 |
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東京府左官工事工業組合を設立 同年 東京府知事より認可 |
昭和 |
19年 |
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東京都左官工事統制組合を設立 同年 東京都長官より認可 |
昭和 |
23年 |
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東京都左官業組合設立 |
昭和 |
23年 |
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商工協同組合法により東京都左官工業協同組合を創立 |
昭和 |
25年 |
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中小企業等協同組合法施行により事業協同組合 東京都左官
工業協同組合に改組 東京都より認可され現在に至る |
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【詳細な歴史】 |
明治15年、左官頭領太田治郎、荒井万平、杉山清吉、川島福之助等の諸氏は左官業の将来と時代の趨勢に鑑み、いろいろ協議いたし組合の結成を発起することとなり東京市内各区同業者中の有力者を訪ね、同業者の合同団結の必要を説き、その賛同のもと、16年「東京左官職組合」を組織し、事務所を日本橋区浜町3丁目に置き業務を開始し7月組合申合規則を作成し、公共事業として府内出火の際、土蔵その他の目塗保護に従事することとした。同年10月、警視庁より認可され、初めて公認組合となった。
明治17年11月農商務省の通達より、組合規則改正の必要が生じ左官職の外、煉瓦石積職、木舞掻職を含め名称を「東京壁職業組合」と改め、明治19年4月東京府知事より認可を受けた。
大正9年、37年間持続してきた組合も時代の流れにより、規約と名称の変更を総会にて決定、変更を申請、大正10年4月東京府知事より「東京都左官工業組合」と認可された。
昭和3年10月東京府より左官工業組合の‘工業’の二文字は重要輸出品工業組合法に抵触するから削除せよとの通牒があり幹部会にて変更を決め「東京左官組合」とした。
東京市は昭和7年10月隣接する荏原郡、豊多摩郡、北豊島郡、南足立郡、南葛飾郡等を併合し、従来の15区から35区に拡張された。それに伴い組合は従来の八之部制を廃止し各区に支部を設置し、支部長を置き活動し組合員多数の加入があった。
戦争が日に日に激しくなり国内産業は戦争に直接関係のある産業が優遇され建設関係業種は資材入手難となってきた。
そのため組合は工業組合への改組を目指し、昭和18年6月商工組合法に拠る定款で「東京府左官工事工業組合」を設立し東京府知事より認可され、戦時下の配給統制実施上の機関となったが、この組合には木舞工事、テラゾー塗工事、マグネシヤセメント工事、吹抜工事の業種も包含され組合員数2,300余名となった。
昭和19年戦時体制に即応するため政府は商工組合法を改正し、統制組合の設立を命じた。
組合は発展的解消を図り昭和19年10月「東京都左官工事統制組合」を設立、東京都長官よい認可を受けた。
昭和20年終戦とともに商工組合法の改廃があり、昭和22年2月末日までに統制組合は解散命令を受けた。解散にともない昭和21年「東京都左官職組合」を結成し一般事務の外、戦災に遭遇した組合員に対する労務者用品の受配事務にあたった。
昭和22年1月建築土木関係業界にも労働組合法により労働者のみの組合を結成するよう通達を受け、東京都左官職組合を解散し「東京都左官職労働組合」を結成したが労使の組合を別々に結成しようとする動きがおき昭和23年1月「東京都左官業組合」を発足させた。
昭和23年事業者団体法の発令のもと各種業者の組合は全て公正取引委員会に届出を要し且つ何らかの事業を行うとすれば、新たに発令を見た商工協同組合法による協同組合でなければならず、本組合は創立総会を経て8月「東京都左官工業協同組合」が発足した。
昭和24年商工協同組合法は中小企業等協同組合法に改定され、昭和25年本組合は中小企業等協同組合法による事業協同組合に改組した。 |
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